京都大学 文学部 Kさん (金沢大学附属高校)
「縁」とは不思議なものだと思うのです。母に紹介されて先生と出会い、英語を見てもらうようになったのも、大学に受かるのも何かの廻り合はせなのでしょう。つまり、受かるのはその大学と縁があったから。受からないのは、別のところに縁づけようとする力(神様が振るうものかもしれない)が働いたから。受験期間を通して、ずっとそういう風に考えてきました。でも合格したあと「神様が見守っていてくれたね」と色々な人に言われて、疑問符(?)が頭に浮かんだのです。毎日勉強し、苦手な英語も先生の添削指導を受けつつ少しずつ伸ばしてきた、その努力はどこに行ったのでしょう。最後は神様や縁で片づけてよいのでしょうか。
それは悔しいので、最近、すこし考えを改めています。合格するということは、大学が自分を認めてくれたということではないでしょうか。単に合格最低点を超えたというだけではなく、答案を通して今までの努力を評価してくれたということ。でもそこには縁の力も働いているはずで、そう考えると何だかしみじみします。まわりもった文になりましたが、縁にせよ認められることにせよ、やはり先生の手助けがあって初めてそこに至ったのだと思います。添削したプリントにお褒めの言葉が書かれていたのも励みになりました。本当にありがとうございます。
2021年03月23日 16:17